国鉄の現役蒸気機関車、最終列車けん引から12/24で50年
↑夕張線を走るD51けん引の石炭列車 滝ノ上~川端間
1975(昭和50)年12月24日、国鉄夕張線の夕張駅を発車したD51 241けん引の石炭列車は、国鉄現役蒸気機関車がけん引する最後の本線走行列車となりました。今日、2025年12月24日は、それからちょうど50年…半世紀が経ったことになります。
1872(明治5)年に新橋~横浜間で日本初の鉄道が開業したときから第一線で活躍してきた蒸気機関車、その最後の姿として夕張線の最終貨物列車は全国に報道されました。
当時、国鉄部内で蒸気機関車の呼称として使われていた“SL”が、マスコミを通じて一般に知られることになり、俗に言う“SLブーム”が到来しました。それも、この日をもってお終いとなったわけです。
この“SLブーム”から数年すると、“ブルトレブーム”が起こりました。寝台特急“ブルートレイン”がまだ全国に走っていて、特に東京発着の九州ブルトレは人気でした。
いまの鉄道趣味者のうち50-60歳代に厚い層があるのは、この二つ続けて起きたブームを経験した人たちがいるためのようです。
かくいう筆者もその一人で、最末期になりますが、最後まで残っていた北海道の蒸気機関車を、かろうじて写しに行きました。まだ高校生でしたので、体力はあっても自由に使えるお金も自由も少なく、北海道まで行けただけでラッキーだったと思っています。
ところで、夕張線のD51けん引最終貨物列車が走る10日前に、旅客列車最後の蒸気機関車けん引列車が走っています。

↑室蘭本線を走るC57 135けん引の客車列車 沼ノ端~遠浅間
1975(昭和50)年12月14日、C57 135けん引の室蘭発岩見沢行きでした。
この少し前にNHKの特別番組で、当時人気絶頂だった山口百恵さんが室蘭発岩見沢行きに乗車した番組が放映されました。このときのけん引機がたまたまC57 135だったことから、当時「百恵ちゃんの機関車」というあだ名が付くほど人気となりました。
さよなら列車けん引機は、所属機関区に長く在籍していたとか、お召し列車をけん引したとか、何らかの肩書きがついた機関車が担当することが多く、実際、室蘭本線の最終列車も別の機関車が予定されていた様です。
しかし、NHKの特番によりC57 135がいきなりクローズアップされたことから、最終旅客けん引機は同機が勤めることになりました。
上の写真は、そのようなことになるとは予想だにしていなかった昭和50年3月25日に撮影したものです。
沼ノ端~遠浅間は勇払原野の真っ直中をまっすぐ横切る区間で、室蘭~岩見沢間の普通列車でもっとも快速運転をする区間でした。同区間に乗車した際には、その速さに驚きました。蒸機牽引列車があれほどの速さで走る経験は、他でしたことがありません。
もちろん、東海道本線で蒸機牽引優等列車が走っていた頃は、もっと速く運転していました。しかし、残念ながらその頃を経験していません。電車特急「こだま」には乗っているのですが…

↑追分機関区構内で入換をする9600形
50年前の12月14日に蒸機牽引の最終旅客列車が走り、同12月24日に蒸機牽引の最終貨物列車が走ったことで、本線上の蒸気機関車は全滅しました。
しかし、その時点でも追分機関区には3両の9600形蒸気機関車がいて、入換に従事していました。39679、49648、79602の3両です。
9600形は大正生まれの名機です。とはいえ、昭和生まれの蒸機が次々と火を落としていくなかで、最後まで働いていたのが大正生まれの老体だったということは、特筆に値することでしょう。
当時、冬季には融通が利く蒸機の方が、最新のディーゼル機関車よりも扱いやすいと言われていましたので、そのことが関係したのかも知れません。
この最後の3両は、翌年3月2日まで構内入換をしたうえで、火を落としました。このことから、国鉄の現役蒸気機関車の最後は、1976(昭和51)年3月2日となりました。
しかし、本線を走らず一般的には存在すら知られていない入換機ですので、ほとんど報道されることもなく静かに引退した印象です。先のC57 135やD51 241とは大きく異なっていたわけです。
なお、この時点でも工場で働く蒸気機関車として、室蘭のテツゲンや、岩手県宮古のラサ興業などではまだまだ現役でした。一方、大井川鉄道ではC11 227による日本初の保存蒸機列車の運転が始まっていました。
テツゲンのS-304はいま三笠鉄道村で走っています。
宮古のC10 8は大井川鐵道に譲渡され、最近整備されたうえで11月21日に運転を再開しました。
ただし、大井川鐵道の方針として年明けの2026年1月13日から「きかんしゃトーマス号」を除く蒸気機関車は、当面運転しないのだそうです。新たな観光列車の運転開始に向けて改造するとリリースされており、原形が保たれるのか気になるところです。
ところで、引退した蒸機のその後はどうなっているのでしょう。
↑鉄道博物館に保存されているC57 135は、展示の主役
蒸機牽引の最終旅客列車を牽引した「百恵ちゃんの機関車」ことC57 135は、大宮の鉄道博物館に保存されています。
上の写真のとおり、館内の転車台に載って展示されていることが多く、まさに鉄道博物館の顔となっています。
一方、最終貨物列車をけん引したD51 241は保存予定だったのですが、最終運転の翌月に追分機関区の扇形庫に留置されている際、扇形庫ごと火災に遭ってしまい、保存が断念されました。
追分の最後の9600形3両のうち79602も、D51 241とともに火災に被災してしまいました。
残る2両のうち39679は解体されましたが、部品等は保存されていたようで、高山線開通五十周年記念として1977年9月に高山本線速星駅前に動輪1軸とナンバープレートが展示されました。高山本線には縁が無かった機関車のようですが、9600形は高山本線で活躍していたため、同形機として白羽の矢が立ったのでしょう。
↑39679の動輪とナンバープレートが飾られている高山本線速星駅前
49648は、廃止された天北線の中頓別駅からやや北にいった国道275号沿いの寿公園に静態保存されています。
こうしてみると、人の人生同様、機関車も現役時代はもちろんのこと、その後も悲喜こもごもですね。
1975(昭和50)年12月24日、国鉄夕張線の夕張駅を発車したD51 241けん引の石炭列車は、国鉄現役蒸気機関車がけん引する最後の本線走行列車となりました。今日、2025年12月24日は、それからちょうど50年…半世紀が経ったことになります。
1872(明治5)年に新橋~横浜間で日本初の鉄道が開業したときから第一線で活躍してきた蒸気機関車、その最後の姿として夕張線の最終貨物列車は全国に報道されました。
当時、国鉄部内で蒸気機関車の呼称として使われていた“SL”が、マスコミを通じて一般に知られることになり、俗に言う“SLブーム”が到来しました。それも、この日をもってお終いとなったわけです。
この“SLブーム”から数年すると、“ブルトレブーム”が起こりました。寝台特急“ブルートレイン”がまだ全国に走っていて、特に東京発着の九州ブルトレは人気でした。
いまの鉄道趣味者のうち50-60歳代に厚い層があるのは、この二つ続けて起きたブームを経験した人たちがいるためのようです。
かくいう筆者もその一人で、最末期になりますが、最後まで残っていた北海道の蒸気機関車を、かろうじて写しに行きました。まだ高校生でしたので、体力はあっても自由に使えるお金も自由も少なく、北海道まで行けただけでラッキーだったと思っています。
ところで、夕張線のD51けん引最終貨物列車が走る10日前に、旅客列車最後の蒸気機関車けん引列車が走っています。

↑室蘭本線を走るC57 135けん引の客車列車 沼ノ端~遠浅間
1975(昭和50)年12月14日、C57 135けん引の室蘭発岩見沢行きでした。
この少し前にNHKの特別番組で、当時人気絶頂だった山口百恵さんが室蘭発岩見沢行きに乗車した番組が放映されました。このときのけん引機がたまたまC57 135だったことから、当時「百恵ちゃんの機関車」というあだ名が付くほど人気となりました。
さよなら列車けん引機は、所属機関区に長く在籍していたとか、お召し列車をけん引したとか、何らかの肩書きがついた機関車が担当することが多く、実際、室蘭本線の最終列車も別の機関車が予定されていた様です。
しかし、NHKの特番によりC57 135がいきなりクローズアップされたことから、最終旅客けん引機は同機が勤めることになりました。
上の写真は、そのようなことになるとは予想だにしていなかった昭和50年3月25日に撮影したものです。
沼ノ端~遠浅間は勇払原野の真っ直中をまっすぐ横切る区間で、室蘭~岩見沢間の普通列車でもっとも快速運転をする区間でした。同区間に乗車した際には、その速さに驚きました。蒸機牽引列車があれほどの速さで走る経験は、他でしたことがありません。
もちろん、東海道本線で蒸機牽引優等列車が走っていた頃は、もっと速く運転していました。しかし、残念ながらその頃を経験していません。電車特急「こだま」には乗っているのですが…

↑追分機関区構内で入換をする9600形
50年前の12月14日に蒸機牽引の最終旅客列車が走り、同12月24日に蒸機牽引の最終貨物列車が走ったことで、本線上の蒸気機関車は全滅しました。
しかし、その時点でも追分機関区には3両の9600形蒸気機関車がいて、入換に従事していました。39679、49648、79602の3両です。
9600形は大正生まれの名機です。とはいえ、昭和生まれの蒸機が次々と火を落としていくなかで、最後まで働いていたのが大正生まれの老体だったということは、特筆に値することでしょう。
当時、冬季には融通が利く蒸機の方が、最新のディーゼル機関車よりも扱いやすいと言われていましたので、そのことが関係したのかも知れません。
この最後の3両は、翌年3月2日まで構内入換をしたうえで、火を落としました。このことから、国鉄の現役蒸気機関車の最後は、1976(昭和51)年3月2日となりました。
しかし、本線を走らず一般的には存在すら知られていない入換機ですので、ほとんど報道されることもなく静かに引退した印象です。先のC57 135やD51 241とは大きく異なっていたわけです。
なお、この時点でも工場で働く蒸気機関車として、室蘭のテツゲンや、岩手県宮古のラサ興業などではまだまだ現役でした。一方、大井川鉄道ではC11 227による日本初の保存蒸機列車の運転が始まっていました。
テツゲンのS-304はいま三笠鉄道村で走っています。
宮古のC10 8は大井川鐵道に譲渡され、最近整備されたうえで11月21日に運転を再開しました。
ただし、大井川鐵道の方針として年明けの2026年1月13日から「きかんしゃトーマス号」を除く蒸気機関車は、当面運転しないのだそうです。新たな観光列車の運転開始に向けて改造するとリリースされており、原形が保たれるのか気になるところです。
ところで、引退した蒸機のその後はどうなっているのでしょう。
↑鉄道博物館に保存されているC57 135は、展示の主役蒸機牽引の最終旅客列車を牽引した「百恵ちゃんの機関車」ことC57 135は、大宮の鉄道博物館に保存されています。
上の写真のとおり、館内の転車台に載って展示されていることが多く、まさに鉄道博物館の顔となっています。
一方、最終貨物列車をけん引したD51 241は保存予定だったのですが、最終運転の翌月に追分機関区の扇形庫に留置されている際、扇形庫ごと火災に遭ってしまい、保存が断念されました。
追分の最後の9600形3両のうち79602も、D51 241とともに火災に被災してしまいました。
残る2両のうち39679は解体されましたが、部品等は保存されていたようで、高山線開通五十周年記念として1977年9月に高山本線速星駅前に動輪1軸とナンバープレートが展示されました。高山本線には縁が無かった機関車のようですが、9600形は高山本線で活躍していたため、同形機として白羽の矢が立ったのでしょう。
↑39679の動輪とナンバープレートが飾られている高山本線速星駅前49648は、廃止された天北線の中頓別駅からやや北にいった国道275号沿いの寿公園に静態保存されています。
こうしてみると、人の人生同様、機関車も現役時代はもちろんのこと、その後も悲喜こもごもですね。