名古屋レール・アーカイブス資料展は、盛況な講演会を経て閉幕
10月27日(火)から開催されていた
第13回 NPO法人名古屋レール・アーカイブス資料展
「= 波乱の幕開け 怒濤の展開 = 名古屋駅の140年」
は、11月8日(日)に終了しました。
その最終日を飾ったのが、「名古屋の鉄道の歴史に迫る」と題した講演会でした。
講師は、今回の資料展の各種資料を精力的に調べてきた、稲見理事です。
まずは、通説や、ネットで提示される内容が、たとえAIであっても正しいとは限らない。正確には、一次資料にあたることが必要と解かれました。
近年しきりに活用されている生成AIは便利なものです。しかしそれは、ネット上に散らばる関連情報を集めたものであり、その真偽についてAIが確認することはしません。
それだけに、通説が間違っていたら修正されることなく表示され、それがそのまま子引き孫引きされていきます。結果、通説がさも真実のように伝わってしまう可能性があることは、ある程度調べものをしたことがある方であれば経験していることと思います。
そのことをまずは強調されました。
一方、AIを活用することで、読みづらい古文書を読みやすい現代文にしたり、筆記データからパソコンで使えるテキストデータにすることなどが格段に簡単かつ高い精度でできるようになりました。
ただし、完璧ではないため、得られたデータを原文と照合することは必要。そんな事例も実例を示して紹介されました。
↑参考文献を示しつつ、名古屋駅の歴史を調べた経緯を熱弁する稲見理事。
その後、名古屋市の明治以降の人口増減を紹介し、さらに明治中期に全国5位の人口を誇っていたことからも、東西を結ぶ幹線鉄道の計画にて“名古屋飛ばし”は考えづらいことを主張します。
その根拠として、鉄道建設当初に計画された東西連絡線は、江戸五大街道のひとつである中山道沿いに建設する構想でしたが、名古屋を経由しない経路は早々に修正されていると、資料をもとに提示されました。
その資料には、当時の工部省鉄道局長の井上勝氏が、明治17年に建設候補地を2カ月弱かけて現地調査した「武上信三勢濃江尾城摂越之前後巡回日誌」の紹介もありました。存在が知られていない資料で、井上勝氏が当時、どこに線路を敷こうと考えていたかが窺える内容です。
実際には、中山道沿いに東西連絡鉄道を敷設する中山道幹線は構想されたものの碓氷峠を越えられずに断念。急きょ東海道線建設となったことはよく知られている事実です。
講演では、さらに中央本線が金山駅の名古屋方で東海道本線を潜って西に移動しながら、枇杷島の岐阜方で東海道本線を越えて再び東側に戻る理由を、稲沢駅の設置位置から説明。その要因は、稲沢駅ふきんの住民からの要望だったことを紹介しました。
また、金山駅の東方に、かつて東海道本線と中央本線を直接結ぶ短絡線があったものの、中央本線完成後に廃線となりました。その理由は、自動連結器になる前のねじ式連結器には方向があり、車両の向きが変わると連結ができなかったためと解説しました。
さらに、JR名古屋駅の営業距離は366.0kmでありながら、駅中心は366k360mである矛盾について指摘しています。
↑資料展では触れていない名鉄バスセンター
名古屋駅関係でありながら、鉄道ではないことから資料展にて取り上げなかった、名鉄バスセンターについて、講演会では貴重な写真とともに解説されました。
名鉄バスセンターは昭和42年の開業ですが、当時、東洋最大規模を誇りました。その当時のバス網は、今では考えられないほどの網の目でした。中には、いまでは鉄道利用があたりまえの中津川まで、国道経由で毎時1本運転していたことを、理由も含めて紹介されました。
このほか、名古屋市交通局については赤池にあるレトロでんしゃ館のシールドマシンが珍しいものだとか、地下鉄の乗車券の券面表示には工夫が凝らされている例などを興味深く解説するなど、興味の尽きない内容が次々と提示されました。
会場はほぼ席が埋まり、後方用意した予備席もかなり埋まるほどの盛況となりました。
この講演会を終えて2時間ほどすると、資料展そのものも無事に終了となりました。
第13回 NPO法人名古屋レール・アーカイブス資料展
「= 波乱の幕開け 怒濤の展開 = 名古屋駅の140年」
は、11月8日(日)に終了しました。
その最終日を飾ったのが、「名古屋の鉄道の歴史に迫る」と題した講演会でした。
講師は、今回の資料展の各種資料を精力的に調べてきた、稲見理事です。
まずは、通説や、ネットで提示される内容が、たとえAIであっても正しいとは限らない。正確には、一次資料にあたることが必要と解かれました。
近年しきりに活用されている生成AIは便利なものです。しかしそれは、ネット上に散らばる関連情報を集めたものであり、その真偽についてAIが確認することはしません。
それだけに、通説が間違っていたら修正されることなく表示され、それがそのまま子引き孫引きされていきます。結果、通説がさも真実のように伝わってしまう可能性があることは、ある程度調べものをしたことがある方であれば経験していることと思います。
そのことをまずは強調されました。
一方、AIを活用することで、読みづらい古文書を読みやすい現代文にしたり、筆記データからパソコンで使えるテキストデータにすることなどが格段に簡単かつ高い精度でできるようになりました。
ただし、完璧ではないため、得られたデータを原文と照合することは必要。そんな事例も実例を示して紹介されました。
↑参考文献を示しつつ、名古屋駅の歴史を調べた経緯を熱弁する稲見理事。その後、名古屋市の明治以降の人口増減を紹介し、さらに明治中期に全国5位の人口を誇っていたことからも、東西を結ぶ幹線鉄道の計画にて“名古屋飛ばし”は考えづらいことを主張します。
その根拠として、鉄道建設当初に計画された東西連絡線は、江戸五大街道のひとつである中山道沿いに建設する構想でしたが、名古屋を経由しない経路は早々に修正されていると、資料をもとに提示されました。
その資料には、当時の工部省鉄道局長の井上勝氏が、明治17年に建設候補地を2カ月弱かけて現地調査した「武上信三勢濃江尾城摂越之前後巡回日誌」の紹介もありました。存在が知られていない資料で、井上勝氏が当時、どこに線路を敷こうと考えていたかが窺える内容です。
実際には、中山道沿いに東西連絡鉄道を敷設する中山道幹線は構想されたものの碓氷峠を越えられずに断念。急きょ東海道線建設となったことはよく知られている事実です。
講演では、さらに中央本線が金山駅の名古屋方で東海道本線を潜って西に移動しながら、枇杷島の岐阜方で東海道本線を越えて再び東側に戻る理由を、稲沢駅の設置位置から説明。その要因は、稲沢駅ふきんの住民からの要望だったことを紹介しました。
また、金山駅の東方に、かつて東海道本線と中央本線を直接結ぶ短絡線があったものの、中央本線完成後に廃線となりました。その理由は、自動連結器になる前のねじ式連結器には方向があり、車両の向きが変わると連結ができなかったためと解説しました。
さらに、JR名古屋駅の営業距離は366.0kmでありながら、駅中心は366k360mである矛盾について指摘しています。
↑資料展では触れていない名鉄バスセンター名古屋駅関係でありながら、鉄道ではないことから資料展にて取り上げなかった、名鉄バスセンターについて、講演会では貴重な写真とともに解説されました。
名鉄バスセンターは昭和42年の開業ですが、当時、東洋最大規模を誇りました。その当時のバス網は、今では考えられないほどの網の目でした。中には、いまでは鉄道利用があたりまえの中津川まで、国道経由で毎時1本運転していたことを、理由も含めて紹介されました。
このほか、名古屋市交通局については赤池にあるレトロでんしゃ館のシールドマシンが珍しいものだとか、地下鉄の乗車券の券面表示には工夫が凝らされている例などを興味深く解説するなど、興味の尽きない内容が次々と提示されました。
会場はほぼ席が埋まり、後方用意した予備席もかなり埋まるほどの盛況となりました。
この講演会を終えて2時間ほどすると、資料展そのものも無事に終了となりました。